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【センター韓国語】2019年度・第5問・問4〜問5

第5問

問4

 下線部の理由として適切なものを選ぶ問題。下線部は最終段落であり、筆者の考えをまとめた結びの箇所に当たる。したがって、文章全体の内容をふまえて、下線部の象徴的な表現を解釈しなければならない。
 まず、チンダルレの花、すなわち西五陵に行くバスで一緒になった子どもたちとの思い出は、「今から50年前」(問題文の最初の一文)のことである。他方で、下線部は「今」の時点での筆者の心情である。したがって、下線部で筆者は、チンダルレの花を目の前に見ながら思いを述べているわけではないことを、前提として押さえておこう。
 とすると、記憶の中にあるチンダルレの花の色は、実際の花それ自体の色だけでなく、その花にまつわる思い出が明るかったかどうかによっても大きく左右されることがわかるだろう。むしろ、実際の花の色がどんなに明るくても、それにまつわる思い出が暗いものであれば、思い出される花の色も暗く沈んだものになるはずである。したがって、下線部のチンダルレの花の色の明るさは、筆者と子どもたちとの思い出の明るさを象徴したものだと考えることができる。
 ここまで検討したところで、選択肢を見てみよう。
 ①は、「山からさっき摘んできたチンダルレの花であったために」という意味である。下線部の直前の段落を見ると、たしかにチンダルレの花は子どもたちが摘んできたばかりのもののようである。しかし、それから「50年」という長い歳月が過ぎていることを考慮すると、摘みたての新鮮さだけが色の明るさの理由になっていると断言することは難しい。ほかにより適切な選択肢がないかを引き続き検討しよう。
 ②は、「子どもたちと遊んで一緒に摘んだ花だったために」という意味である。下線部直前の段落には、筆者が子どもたちと一緒に花を摘んだという描写はない。筆者がいったん子どもたちと別れて、サークルの仲間たちと話していたときに、子どもたちが摘んできた花を差し出したというのだから、花は子どもたちだけで摘んできたものだと考えなければならない。よって②は本文の内容に合致せず、不適切である。
 ③は、「十分に色づく前の明るい色だったために」という意味である。本文中には、チンダルレの花が十分に色づく前であったかどうかを示す描写はない。したがって、花の時季が色の明るさの理由になっていると断言することは難しい。やはり、より適切な選択肢がないかを検討しよう。
 ④は、「チンダルレの花から子どもたちの心(=気持ち)が感じられたために」という意味である。これは、実際の花の色よりも思い出の明るさを重視したものである。下線部よりも前の3つの段落を見ると、ほんの束の間ではあるものの、筆者と子どもたちとの親しい交流があり、子どもたちからの感謝のしるしとしてチンダルレの花が筆者に贈られていることがわかる。筆者は、子どもたちのこの感謝の気持ちを受け止め、大事なものとして記憶しているからこそ、50年という長い時を経ても花の色があせることなく明るいものとして残っているのだといえよう。
 以上から、最も適当なものは④である。花の新鮮さや花の時季なども、部分的には色の明るさの理由になっているかもしれないが、「最も適当」であるとはいえないので正解ではないのである。
■44■→④

問5

 本文の内容と一致するものを選ぶ問題である。選択肢に書かれている内容が本文にもきちんと書かれているか、その内容は間違っていないかを確かめて答えることが必要である。
 ①は、「筆者は子どもたちと親しくなるために細心の注意を傾けた」という意味である。筆者は第2段落で、子どもたちの群れに交じりたいと思いついてから、対話を成り立たせるためにはどういう言葉をかければよいかを念入りに考えている。①の記述はこの箇所に合致する。
 ②は、「筆者は子どもたちが西五陵の近所に住んでいるとは思わなかった」という意味である。104ページの下の方にある筆者と子どもたちの対話を見ると、子どもたちは「西五陵の近所」ではなく「文化洞」に住んでいると答えている。したがって②は不適切である。

 ③は、「筆者は一日中子どもたちと一緒に楽しい時間を過ごした」という意味である。終わりから3段落目を見ると、筆者は子どもたちとシルム(相撲)をとったり歌ったり写真を撮ったりして遊んだ後、いったん別れている。したがって③は不適切である。
 ④は、「筆者は子どもたちと一緒にチンダルレの花を持って写真を撮った」という意味である。やはり終わりから3段落目を見ると、筆者は子どもたちと写真を撮った後に別れており、その次の段落で子どもたちがチンダルレの花を持って再び筆者のところに現れている。したがって、「チンダルレの花を持って写真を撮った」わけではないので、④は不適切である。
 以上から、本文の内容と一致する選択肢は①である。
■45■→①

【訳文再録】

 今から50年前、大学の時のことだ。そのとき私は大学の近く(の地域)の小学校を対象とするボランティアサークルの活動をしていたのだが、そのサークルで西五陵に花見に行ったことがある。今でこそ交通(の便)が非常によくなったが、当時はバスの終点で降りて1時間程度歩かなければならなかった。私たちは三々五々話をしながら道を歩いていたのだが、私たち一行の先になったり後になったりしながら、同じ方向に歩いていく子どもたちがいた。水筒やおやつが入っている荷物を持っていた。明らかにお出かけ(=遠足)に行くところだった。〈ア〉
 みすぼらしい身なりだが、色白の子どもたちの表情が、ボランティア活動で出会った子どもたちの姿と重なり、なぜか私は、この子どもたちの群れに交じって今日一日を過ごしたいという考えが浮かんだ。子どもたちの世界に入っていくために大切なことは「初めての対話(=つかみの会話)」を無事に終えることだ。〈イ〉そこで私がちびっ子たちに投げかけた最初のことばは、必ず答えの必要な、そして答えることが可能なものでなければならない。万が一、「ねえ、きみの名前は何?」という一言を投げかけたなら、彼らとしてはまず(私に対して)答えてやる必要を感じない。それのみならず、むしろ(子どもたちを)あわてふためかせ、決して対話が成り立たなくなる。〈ウ〉
 私ははっと思いついたように、ちびっ子たちの方に振り向きながら「■42■」と最初の一言をかけた。この問いかけは、彼らにとってはまったく負担(感)がない(=負担にならない)質問だ。「はい」または「いいえ」で十分なのであり、また彼らをして誰かを助けたという喜びを与えることのできる質問だった。〈エ〉反応は予想よりずっとよかった。
 「(A)」ではなく「(B)」だった。そればかりか、「(C)」。
 しかし、その次の場面で意外にも話に詰まってしまう危うさは、依然として残っていた。だから
「バスの終点から半分くらいは来たことになるかな?」
「いいえ、半分もまだ来ていません」
「きみたちは、西五陵の近くに住んでいるみたいだね」
「いいえ、文化洞に住んでいます」
「じゃあ、今は文化洞からここまで来たところかい?」
「はい」
「家に帰る道を失ったら(=道がわからなくなったら)、どうしろって(いうのかな)(=どうしていいかわからなくて困るだろうに)」
「いえいえ、問題ありません(=大丈夫です)」
 こうしてひとまず対話の入り口を開いておいた。今や、このちびっ子たちの世界の中により深く足を踏み入れなければならない。芸能人やスポーツ選手、アインシュタインのような偉人たちについてあれこれ質問をしながら、また彼らの話を誠意を持って聞いてやりながら、私たちは相当に親しくなることができた。
 そうする間に、いつの間にか西五陵に着いた。ひとまず私はサークル一行の中に戻ってきたが、昼食を食べ終えた後、自由時間には再びちびっ子たちに会って、相撲もとり、歌も歌い、写真も撮って、ひととき遊んで別れた。
 (その後)サークルの友達と話に花を咲かせていたところ、ちびっ子たちが訪ねてきた。はや家に帰る身なりだ。彼らは写真が(現像されて)できあがったら一枚送ってほしいと言って、住所を書いてくれたあと、ひとくくりのチンダルレ(ツツジ)の花を差し出した。そして小学生らしく一斉に頭を下げてあいさつをして帰っていった。
 今も私の記憶の中で最も明るいチンダルレの花の色は、このときに受け取ったチンダルレの花の色だと思っている。いつかソウルに帰ったら、私は西五陵に春の寂しい散策に行きたい。きれいなチンダルレひと房を胸につけて、ゆっくり歩いて行き、ゆっくり歩いて戻りたい。

2019年度の問題・解説へのリンク

問題PDF 朝日新聞 センター公式
解答PDF 朝日新聞 センター公式
第1問 全設問
第2問 A・B C D・E
第3問 A B C
第4問 全設問
第5問 本文全訳 問1〜問3 여기!
第6問 本文全訳 問1〜問3 問4・問5